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鬼畜にとっての「悪い奴」とは?

俺は他人の不幸を何とも思わないどころか、常に自分以外の人間全ての不幸と絶望を願ってやまない卑怯卑劣な人でなし鬼畜だ。ゆえに、俺にとっての“悪い奴”といえば、通常の意味とは全く正反対に「正義の側にいる連中」全てのことをさす。
 具体的にあげるだけでもムカつくが、正義を愛する連中、正義の味方、善良な市民、人道主義者、まともな宗教家(今どきいるのかよそんな奴!)、エコロジ スト、市民ボランティア、何かというと人権人権人権人権人権人権と声を大にしてワメく人権擁護派の弁護士だとか文化人……そういう連中は全て鬼畜な俺に とっては“もの凄く悪い奴”なのである。はっきり言ってしまえば、こういう連中は“正義”という名の最悪の妄想にアタマをヤラレている救いようのないキチガイどもなので、今すぐみんな死んでくれたらどれだけ世の中がスッキリするかわからない。しかし「現世では悪がはびこる」というグノーシスな思想の通りに、世の中はそう簡単に良くはならない。
 ……などというゴタクは言い出すとキリがないし、言ってる本人も退屈になるので、このへんで止めて本論に入ろう。
 だいたい、簡単にコトバで“悪い奴”などと言うが、善と悪の区別ほどあやふやなものはない。それは立場が変われば簡単に逆転するものであり、物の“価値”と同じで、ある種の価値観を共有する人間同士の関係性の中にしか存在しないものだ。
 たとえば、この地球上には国ごと全てが狂っているアメリカという蛮国がある。
 この国は、植民地のアガリで喰っていた大英帝国で食い詰めたプロテスタントのカスどもが船に乗ってやってきて、罪のないネイティヴ・アメリカンやバッファローを虐殺しまくって作った、とてつもなく因業な国である。そういう建国史がうしろめたいせいか、この国は誰も頼まないのにやたらと“正義”に固執して、「世界の警察」気取りで世界中の紛争に首を突っ込みたがるの だ。中国の民主化についてあれこれ文句をたれているようだが、中国にしても「人種問題や麻薬問題や凶悪犯罪を山ほどかかえた蛮国」に偉そうに人権がどうの と言われたくはないだろう。所詮、“正義”などというものは、自らの行為を正当化させる都合の良い大義名分で、こういう国の姿勢からは「人は“正義”にこだわればこだわるほど“正義”から遠ざかるものだ」ということぐらいしか学べない。これが“悪”でなければ一体何が“悪”なのだろう?
 そもそも“正義”だの“善悪”だのというものは人間が都合のいいように自らの行動を区分しただけのことで、それにたいした根拠などあろうはずがないのだ。
 俺はこの世で最低最悪の鬼畜だという意識がある。“悪い奴”とは俺のことだろう。で、俺のどのへんが一番鬼畜かというと、それは俺自身が「自らの行為や 行動にいかなる正当性をも求めない」ことろだと思う。これは「俺は徹底的に自分の快楽の為にしか行動しない。善や悪は行動原理の範疇外である」ということ だ。
 俺はこれまでの下品で最低な人生の中で、多くの不良やヤクザや人間のクズどもに関わってきたが、連中を観察して気がついたのは「どんなにワルといわれる 人間でも人をブン殴るにはそれなりの理由を必要として、ガンたれたとか肩が触れたとか、何らかの理由がないとブン殴りにかからない」ということだった。こ れは鬼畜の俺には理解不能の現象だった。たかが人間をブン殴るのにどうして理由がいるのだろう?
 俺は、10歳の頃に海で溺れて死にかけたときにした“神秘体験”のおしまいの部分で自分の中にとてつもなく邪悪な存在(この世に存在する悪の総体?)が 身体に入ってきてからは、どんな陰惨な暴力行為も、卑怯で卑劣な行為も手段を選ばずに平気でできるようになった。多人数で袋叩きに合っても、バットを持っ て夕食時に一軒一軒お礼参りに出かけて行って、家族の前で食卓をひっくり返して暴れた。卑怯な闇討ちや相手の兄弟家族を襲うなどの卑劣行為を、何度も繰り 返したおかげで、当時は村じゅうから「キチガイ」と呼ばれて疎まれ怖れられたものである。
 加えて体質が電波系(常にイロんなやつらの声が聞こえる霊感みたいなもんだ)なので人をブン殴った瞬間にそいつの歩んできたこれまでの人生のヴィジョン が走馬灯のように見えるときがあった(サイコメトリーってやつだ)。自分が殴った相手の赤ん坊の頃、親や周囲のみんなに祝福されて可愛がられている姿、お 袋のおっぱいを飲んでいる姿、よちよち歩きの頃、ランドセルを買ってもらってはしゃいでいる姿、親に叱られて泣いている姿、日が暮れるまで友だちと遊んで いる楽しそうな姿……そうしたヴィジョンをたくさん見てしまうと、自分もそいつを見守ってきた家族の一員になったような近親感を覚えてしまうものだ。あ あ、こいつは皆に愛されてきた結構いいヤツなんだなあ、子供の頃はあんなに可愛かったし、お父さんもお母さんもいいヒトたちじゃないか……などと感情移入 してしまうのだが、そういう暖かい感情を全部ブッ壊して、一瞬限りない愛情を抱いた相手を情け容赦なくブン殴るのである。これがまた、なかなか破壊的で背徳的な快感なのだ。相手をいいヤツなんだなと認めて好きになりながらブン殴る。疑似的に罪悪感を昂揚させながら暴力を振るうのだ。嫌いな人間をブン殴るなど誰でもできる簡単な行為だが、好きな相手を思いきりブン殴るのは至難の業だ。俺は好きになった相手を加減をせずに、たいした理由もなく無慈悲に思いきりブン殴る。こういう理不尽な暴力こそが鬼畜的快感を呼ぶのである。
 敵対する不良連中以外の普通の友人に対しても、日常の何げない会話中に発作的に殴りかかって相手の歯が折れるまでブン殴ったことも何度かある。当然、その都度相手からは「このキチガイ!」と罵られて絶交された。そんなとき俺は「ああ、これでいい、俺は鬼畜だからこれでいいんだ! 親しい友人を理由もなく突然殴るなんて、俺は何てヒドい鬼畜なんだろう」と鬼畜としての自分に酔うのである。こんな複雑な快感はマトモな善人どもには逆立ちしても理解できないだろう。
 暴力の快感は、どんなに言っても言いつくせないくらい甘美なものだ。アタマの中のスジを切って他人に殴りかかる瞬間、俺の眼の前はまっ白く光輝いてえもいわれぬ快感が全身をつきぬける。「おお、暴力こそわが生の証し、この瞬間こそが至福のとき」と自分の暴力行為に心底陶酔できるのだ。俺にとって俺が行う全ての暴力は快楽以外の何物でもなく、それも「全く理不尽で明確な理由もなく、卑怯卑劣に、弱者に対して一方的に行われる陰惨な暴力」ほど、もたらされる快楽は大きいのだ。
 そういう嗜好を持った俺がこれまで頻繁に暴力事件を起こしてきたのはごく自然なことである。ここにはとても書けない犯罪行為も数多く繰り返してきたが、悪運が強いせいか電波のお導きか分からないが、大きな刑事事件として発覚したことは一度もない。「罪と罰」という言葉があるが、俺の場合は「罪と罪」と言い切ってもいいぐらい「罰」のないさわやか人生なのである。読者諸君には、悪事に限らず何でも計画的にコソコソやりゃあ、そう簡単には発覚しないということを覚えておいて欲しい。
 そういう犯罪自慢ばかりしても仕方がないので、一般的な“悪い奴”についても語ろう。おそらく一般的な意味での“悪い奴”とは、共同体の秩序を乱す反社会的な犯罪を犯す連中のことをさすのだろう。
 しかし、単純な刑事事件を起こして捕まる馬鹿は“悪い奴”というよりも“馬鹿な奴”である。俺には、そういう“馬鹿な奴”の犯罪報道をテレビの前で娯楽として笑いながら見ている連中こそ“悪い奴”のような気がする。たとえば最近の例でいえば、帝京大学のラグビー部の連中が起こした未成年への婦女暴行(輪姦)事件を思い出してほしい。概してこういう“男らしい事件”は フェミニストや人権主義者から徹底的に糾弾される傾向にあるが、そういうニュースを見ているヒマな視聴者の中には、俺のように事件をネタによからぬ妄想に ふけり、事件をオカズにして何回も抜くような不謹慎な鬼畜野郎もいるのである。これはインターネット上のアイコラ以上に取り絞まりようがないのでタチが悪 い。参考までに、人の心の奥でどういう邪悪な妄想がなされているのかを、今度の輪姦事件報道を目にした全国の男らしい視聴者の典型的な反応を俺のアタマの中にやってきた電波をいくつか紹介しよう。
 「それにしても被害者のオ●ンコはどんな色・形・ニオイをしていたのだろう/モリマン度は?/処女だったのだろうか……いやそんなはずはない!/どういう感じで押さえ込まれてマワされたのか想像するだけでカウパーが出てきますね/やっぱり(輪姦も)友情とチームワークの勝利だね/最初の一人はおトクだけど仲間の出した精液で一杯の腟穴にブチ込むのはちょっと……/で、女の方はイッたのか?/何回イッたんだよ?しまいにゃ腰まで使ったンじゃねえのか?/仲間意識のタカマリと股間のタカマリは性比例するのか/こいつら運が悪かっただけだよな、どこの運動部の連中もみんなやってることだろう/ようし!こうなったら俺も来年は帝京大学を受験するぞ!/被害者の人権を考えると怒りで胸とアタマが痛くなるけど事件の状況を考えると何故か股間がゾクゾクしてくるのは私が罪深いせいでしょうか?/体位は?一人平均の持続時間は?/ちなみにアナルを犯ったのは何人?/何が悪いって、やったあとでカネ払わなかったのが悪かったんじゃないの?一人一万ぐらい出してりゃ事件になんなかったんじゃないの/ああ、輪姦のできる仲間のいるこいつらがうらやましいねえ、俺には信頼して組める仲間が一人もいないから、強姦はできても輪姦はできねえ/ 中には二回犯した奴もいるだろうね/エロ漫画みたいに腟とアヌスと口の三か所に同時にチンポをぶち込まれたりもしたんですかね/ビデオは撮らなかったのか ねえ/体験告白手記が読みたい/言うことを聞かないと帝京大学の校門の前に置きざりにするぞ/可愛そうに……俺のチンポで慰めたい!/捕まったこいつらが出所後にもう一度スクラムを組んで、被害者宅に押しかけてもう一度親の見ている前でその娘を輪姦したら、はっきり言って俺はこいつらを認めるね、ホンモノだよ/で、被害者の尻穴は処女だったんでしょうか/あああああアナルセックスがやりてえええええ!」
 ……こういう妄想が列島をくまなくかけめぐっている。こんなことを妄想する連中こそ“悪い奴”であり、糾弾されるべきだが、残念ながら人が心に思うことを取り締まれる法律も手段もこの世には存在しない。おそらく今後は、この事件を題材にしたエロ小説が書かれたり、エロビデオが撮られたりするだろう。人の不幸を己の幸福としか感じられない人間のクズ――そうした連中こそが鬼畜であり“悪い奴”なのだ。